第86話 コギト・エルゴ・スム

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 六角第一高校。

 社がちょうど校長室に入った頃、寄白は四階にいた。

 「……」

 人体模型はいつもの全力疾走とは違い、重い怪我でもしたかのように左足をひきずってトボトボと歩いてきた。

 ズルズルと足の甲が床とこすれる音がする。

 右膝に重心がかかり、樹脂の足の裏が廊下をペタッペタッと鳴らした。

 「誰になにを言われた?」

 寄白は淡々と問いかけた。

 今更、寄白の存在に気づいたかのように、人体模型はゆっくりと顔を上げた。

 「なにがでやんす……?」

 人体模型は、細い声で呟いた。

 右半身は壊死したように真っ黒く、強風に舞う砂埃のような禍々しい瘴気を漂わせている。

 「オマエとは“さだわらし”がくる前からの付き合いだよな?」

 「そうでやんすね?」

 磁石に引かれる砂鉄のような黒い気体がはっきりと目視できた。

 右半身は現在進行形ですすけて闇を深めていく。

 「お嬢……あっしは何者なんでしょうか?」

 もはや左半身と右半身で別生物のような人体模型。

 鼻を中心に左右に分かれた口元からは二重の声がする。

 右からは、やさしげな青年のような声、左からはノイズの混ざった濁り声。

 雑音のような濁り声はどこか物憂げだった。

 「オジョウ。教えてくだせえ?」

 二つの声が重なって混線したラジオのように聞こえる。

 寄白はギリっと奥歯を噛み、連動させるように握り拳に力を込めた。

 だが表情筋がすぐにゆるんで、悲しそうに人体模型を見つめた、それはなにかを決意させた凛々しい瞳だ。

 「オマエほど、四階ここで会った回数が多いアヤカシは初めてだ」

 「そうでやんすか?」

 「ああ」

 (アヤカシが自己の存在に疑問を持ち始めたら、それはもうブラックアウトの前触れ。なによりすでに闇に侵されてる。私はときに恐怖支配することで抑え込んできた、でも……あとはもう……倒すしかない……)

 「あっしはどうして人体模型なんでしょうか? できることなら人間に生まれたかったでやんす」

 「そんなことは誰にも説明できない」

 (自己喪失アイデンティティクライシスか……。くそっもうそこまで? 死者と同じやり口か?)

 「あっしは気づけば人体模型だったでやんす。自分で望んでこうなったわけじゃないでやんすよ?」

 「ああ。知ってるよ」

 「あっしを殺しますか。勝手ですやんすね?」

 「ああ。殺す」

 寄白は一瞬のためらいもなく即答した。

 固まった決意は揺るがない。

 「お嬢になんの権利があってあっしの存在を奪うでやんすか?」

 「オマエの言う通りだ。私にもわからない、この力は誰に与えられた生殺与奪けんりなのか?」

 (ルーツを遡れば辿り着くのかもしれない私の源流に……ただ、いまそんなことを考えても無意味だ)

 「家畜だって同じだと思うでやんすよ? ただ豚に生まれた。ただ鶏に生まれた。ただそれだけなのに食料として殺されるなんて……」

 「ああ、反論の余地もない」

 (くそ、くそっ!! 入れ知恵されやがって。答えのない問い。これほど厄介なものはない!!)

 寄白は地団駄を踏むように一度、強く床を蹴った。

 ――ズシッ。鈍い音が四階の重い空気をいっそう重くした。

 指先に鈍痛が走る。

 「逆に考えてくだせえ? あっしが人間を殺そうとしたらどうしやす?」

 「みなまで言うな」

 寄白は耳に手をかけ、そっと十字架のイヤリングを持った。

 十字架を振りかぶる仕草をみせたが、そのモーションにはためらいが現れている。

 人体模型の真理をついた質問に寄白の決意が揺らいだ。

 人体模型はそれほど大きな命題めいだいを提示した。

 寄白は何度となく“アヤカシ”を“殺して”きた。

 そこにはすべて、善(自分)対、悪(人を襲うアヤカシ)の構図ができあがっていたからだ。

 だが、この人体模型はどうだろうか。

 四階に出現した瞬間から、ただ声を上げて廊下を走りつづけていただけだ。

 この閉ざされた亜空間のなかで人間に危害を加えるわけでもなく、己がなんなのかも知らずに走っていた。

 寄白はある種の生殺与奪権を当局によって与えられている。

 それはアヤカシを“生かす”か“殺す”かの権利だ。

 ただ、自分に宿された、能力ちからは誰に与えられたものなのか、その“答え”を持ち合わせてはいない。

 わずか高校二年生の少女は、初めてアヤカシを殺すことに罪悪感を覚えた。

 この人体模型に自分がなにかされたのか? この人体模型は人を襲ったのか?

 いや、この人体模型に限っては過去に一度だって誰かに危害を与えたことはない。

 ただ、ブラックアウトすればまた話は変わってくる、無条件で他者を襲うことになる。

 ここで下す決断は、いまアヤカシ・・・・の人体模型を殺すことしか手段はないということだ。

 こと四階において寄白が過去に倒したアヤカシは、すべてブラックアウトする兆候を持つか、初期段階で人を襲うアヤカシだった。

 今回の人体模型がたまたま穏やかで愚直ぐちょくな“アヤカシ”だっただけ。

 それはアヤカシの性格を形作る“負力”の構成要素による。

 いま目の前の人体模型はただアヤカシらしからぬ性格の持ち主だっただけだ。

 現段階の七不思議で寄白によって存在の猶予を与えられているのは、わずか一体、《誰も居ない音楽室で鳴るピアノ》だけである。

 人体模型は最期を悟った。

 それは辞世の句とでもいうかのように言葉になって口をつく。

 「青い空の下で太陽を浴びて走りたかったでやんす」

 人体模型の瘴気はついに左半身をも浸潤しはじめた。

 アイスに群がる蟻のように黒い面積が増えていく、すでに体の半分以上は黒く覆われていた、そしてまた瘴気は人体模型を包んでいく。

 (オマエはずっと四階ここに居たんだ。青い空も太陽も見たことないだろう? 誰がそんな知識を。誰だ?! ……アヤカシ自身は誰かに知恵を与えられた認識もないだろうけどな。……もしかして、私が教えたオリンピックあれも余計な知識だったのか?)

 「私だって自分が何者なのかわからないさ。でもな、そんな悩みは明日また学校に行けば吹き飛んでくんだよ」

 「オジョウ……ひと思いに」

 寄白は人体模型に銃口を突きつけるように十字架を向けた。

 漆黒の十字架は不規則に瞬きはじめた。

 人体模型は、なにひとつ抵抗することはなかった。

 寄白は余命宣告する医師のように――わるい。とボソっと呟き、床に視線をずらした。

 アヤカシとの戦闘時相手から視線を外すことは自殺行為に等しいことだ、それでもあえて寄白は目を背けた、いや、そうせざる負えなかった。

 (なんでそんなに往生際が良いんだよ。もっと憎めよ。この隙に襲い掛かってこいよ。じゃないと、じゃないと、私はただの虐殺者じゃないか?!)




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