――運命……?
鱗に覆われた、蛇とも竜ともとれる頭部が俺に言葉を吐いてきた。
兎であれば耳にあたる場所にツノがあって、その周囲にも剣山のように細かい突起物がある。
冷徹そうな、赤い瞳と俺の視線がぶつかる。
獣は喉の奥から深い息を放つ、その獣臭い風は剥きだした牙のあいだをすり抜けてきた。
小さな木ならば一息で簡単に倒してしまうだろう。
ただしここに木々があればの話だ、が。
見渡す限り木々ひとつ存在しない世界。
虫、一匹の存在も許されない環境。
「オマエはいつでも他者の業を背負い絆される」
喘息のような喘鳴と空気を振動させる重低音が語りかけてきた。
口腔内は唾液で湿っていてヤケに赤みが目立つ。
まるで朝日でも食い散らかしたようだ。
さらに俺の目を釘づけにしたのは、その体の大きさだった。
その巨体でしか丸太のような首は支えられないだろうな。
「理解ってる」
「戯言を。なんど繰り返せば気づくのだ?」
異形の頭部は八つあり、そのひとつは人語を習得していてスラスラと会話をつづける。
ほか七つの頭も獲物に狙いを定めていて一点を凝視している。
巨石のような体が合計八つの頭を支えている、それだけの体積があるのだから当然のことだろう。
長い首をそれぞれ不規則に揺らして威嚇するように接近してきた。
俺の顔の前でシューシュー鼻息を荒くさせると、獣臭い微風は、ふたたび俺の体をかすめていった。
同時にクジラほどの大きさの尾を揺らす。
――ズッシーン。と重い音がする、そいつが動くたびに周囲の空気はピリリと委縮した。
そいつの鼻のさきが俺の頬に触れる……いや触れているのかどうかはわからない、俺が俺であることは、まだ俺にはわからないから。
けれど、きっと俺は俺なんだろう。
ここが寒いのか暑いのかもわからない、ただ、すこしさきに目をやると赤と橙が混ざり艶光りしたドロドロの物体が噴きだしている、あれはマグマだ。
俺があのマグマに触れることができるのかできないのかもわからない。
あれは熱いのか冷たいのか?
温度なんてのはそれぞれの個体によっての感じかただ。
熱帯魚にとって適温とされる最大公約数的な温度は、摂氏二十四度から二十八度。
たとえば一度で生きる魚にとっての二十度台は死を意味する。
逆説的に考えて、生存可能な環境下で測る温度を基準に、暑いのか寒いのか? 熱いのか冷たのいか?を判断しているにすぎない。
世界が変われば融点も沸点も変わる。
経験則から言えば、いまのこの状態は雲が蒸発するほどの環境……マグマは脇からピキピキと凍結しはじめた。
いまはまだしょうがないか、灼熱も極寒も同類項としてある。
いや、これは俺の速度領域の捕らえかただ。
「それでも俺は……」
俺は巨大な生き物の目下で口ごもった。
決意か逡巡のどちらかの選択を迫られているようだったから。
前回は失敗だった……のか……?
「つくづく因果な運命だな。いや、オマエにとって“因果”も“運命”も同義か?」
「ああ」
俺はそう答えるしかなかった。
「時間は不可逆だ。決して遡るな」
時間とは、ある点から点への流れ。
刻は、点と点を結んだなかある一点。
つまり刻の連なりが時を形成すると言ってもいい。
現在は現在である、けれどこう思った瞬間にさえ現在は過去へと流れていく。
もう何百年分を費やした。
「理解ってる。因果律に干渉はしない」
「オマエにそれができるとは思えんな」
そいつは笑った、いや、そう見えただけかもしれない。
でも確かに片方の口の端をニヤリと吊り上げている。
ただ、俺にはそんな怪物の表情の見分けかたなど知らない、それでもわかってしまう、それが俺とこいつの因果だから。
ただ、それは前回までの関係においてだ。
「つぎは、いったい、いくつの特異点が集結するのだろうな? 【終焉の開始】そのとき、ふたたび相見えようぞ?」
特異点は時間の支配から解放された存在。
時間の強制力から、ゆいいつ解脱できる者。
「ああ。幾星霜を経てそのときにな……ただし、俺は終焉を前提になんてしない。その眼で確かめろ」
「未来永劫を願うか。ひとつ忠告しておいてやる。けっして望み通りの結果になどならん。七つのラッパが吹かれたのは七つの罪を犯しすぎたからだ。罪の洪水。罪の決壊。箱舟を沈没させるほどの大罪。あれには恐れいった」
「きっと変えられる」
「オリジナル・シンはまだ残っている。それを背負う者に繁栄などあるものか」
巨大な生き物は、岩のように大きな目をギョロリと見開き、体躯を百八十度、翻した。
真横には二又に分かれた鈍色の槍が刺さっている。
ロンギヌスと呼ばれるものだ。
ロンギヌスがどこに刺さっているのか、いや、刺さってさえいないのかもしれない。
聖槍の柄からはポタポタと赤い雫がしたたっている。
「そうだとしてもオリジナル・シンは何度となくその中身を変えてきた。前回の罪を今回も被るとは限らない。その都度歴史は変わる」
「Y(時間)軸は消滅。Z(単位)軸は均衡を保ったまま。X(並走)軸は破損。X軸の残骸がこんかいのX軸にもくい込んでくるだろう。……中途半端な三点軸をどうするつもりだ?」
「いまはまだわからない」
「……まあ、いいさ。どのみち物語の最終章にオマエはまた、すべてを忘却の彼方へ消し去っているのだから」
八つの長い首は俺に背を向けたまま扇状に広がって天を仰いだ。
「それも運命だ。オロチ!?」
俺がオロチと呼んだ、その怪物は振り返ることはない。
――ズズズ、ズズズ。と巨大な音をたてて歩いて行く、二本の足は前進を止めることはなかった。
大きな山が動くがごとく、オロチは轟音をとどろかせたあとに咆哮した。
高音域と中音域と低音域が混成した叫びが空気を破裂させる。
東雲がクレバスのように割れると天道が伸びてきた。
暁の空に太陽が顔をのぞかせる。
遮るものなく、すぐに橙色の後光は放射状に散った。
地上に足元はなく、天空に空もない。
昼夜もなく、右も左もない、東雲がどこにあって天道がどこにあったのかも、もう定かじゃない。
産れたばかりの朝が目覚める。
刹那も永遠も変わらない。
産声の代わりに燦々と陽射しが降り注いだ。
遙か遠くの遙か近くで白色矮星が超新星爆発を起こす。
日光と月光の境界線もなく、光は延々と降りつづけた。