第169話 滅怪(めっかい)

獅身女の頬に蜘蛛の巣状の亀裂が走る、わずかな震動で溝は深まっていく。

 ヒビは延々と額まで連なっていった。

 顔面の六割は、まるで毛細血管が浮きでたように怒張して獅身女本来の面影は消えていた。

 瘴気がすすけて周囲を漂い流れる。

 ――ドン。後ろの足が地面を蹴りつけた、つづけて――ドン。もう片方の後ろ足が地面を蹴る。

 前足が地を踏む、もう片方の足の裏が地面を擦る、――ドンドンドンドン、四肢の律動りつどうがつづいた、これは時折、子供が寝そべってする行為と同じだ。

 行き場のない獅身女の怒りはその行動となって表れていた、いまだに――ドンドンドンドンと地を蹴っている。

 「野暮なことはせん。そなたを待ってやろう、暴れ疲れるまで」

 アヤカシにもプライドはある、升のその一言が容赦なく獅身女の心を削った。

 シンプルな言葉だからこそダメージは大きい。

 ――ア”ア”ア”ア”ア”ア”ァァァ!!

 獅身女の叫びが、この世界で有りこの世界ではない空間に轟く、そんなわめきは散逸して瘴気とともに消える。

 ――と。

 升は言葉を切った。

 「思ったのじゃが結果は同じじゃし。一度不意打ちされとるしのぅ」

 獅身女は、まるで叫びが文字となって宙を飛び回るような咆哮をつづけた。

 大きく口を開けたまま、獅子舞のようにぎこちなく首を回してから、升に顔を向け

て、なおいっそう地団駄じだんだを悪化させた。

 ――ア”ア”ア”ア”ア”ア”ァァァ!!

 「五月蠅うるさいいやつじゃのぅ」

 獅身女はこれみよがしに体が揺らすたびに、瘴気がもれだしボロボロと体表面が剥がれ落ちた。

 獅身女自身、外部にいる升よりも内なるモノと戦っていたそれが証拠につねに自分の腹部を見据えている、唸り声は吸い込まれるように己の腹のなかに消えていった。

 俯き加減の獅身女の口元が砂の城のように崩壊した、獅身女は瓦解する表皮を気にもとめず首をもたげて升を凝視する。

 同時に鼻も崩れ去った、本来欠けていた鼻は、ついには形を失くした。

 いままさに、蝶が羽化するように黒い獅身女が誕生しようとしている。

 「ふむ。限界のようじゃな。上級のブラックアウトが暴れ回っても困るしのぅ」

{{縮地しゅくち}}

 本来、人の歩行とは足を交互に差しだして目的地までの距離を縮めていく行為だ、だがいまの升は獅身女との距離を瞬時に縮めた、地にはえぐれたような足跡が残っている。

 升は、黒い体表面の獅身女の崩れた顔面の真ん前に姿を現した。

 眉間にシワを寄せ、ふたたび鬼神のような表情を見せる。

「数字は美しいとくにアラビア数字はのぅ。ゼロは無であり有。零があることで人類は飛躍的に進化した」

 {{ゼロ}}

 ――パシュ。っという音が一度だけ響いた。

 誰かがその音に気づいたとしても、異音の出所がわからないような位置で、だ。

 数メートルはあった獅身女の体が消えていた、静止画なら、獅身女が元いた場所を点線で囲み、点滅で表現するように忽然と。

 升がピタっと着地すると同時に、元の世界に戻り夜の静寂が還ってきた、アヤカシが蠢く気配ももれでた瘴気もなにひとつの痕跡がなかった。

 獅身女の存在がどこに消えたのかまったくわからない、存在そのものがなくなっていた。

 ボナパルテは思わず息を飲んだ。

 あまりに一瞬で、あまりに綺麗にアヤカシを消し去った、その神業かみわざに。

 (……あれが滅怪めっかい

 この世には菌に対抗するにもレベルがある、それは除菌じょきん抗菌こうきん殺菌さっきん滅菌めっきんの四つだ、台所用品や幼児用品などでもよく耳にする言葉だろう。

 滅菌はそのなかでも微生物などから蛋白質レベルまでを完全に死滅させることである。

 アヤカシを退治するにもこれと同様の退治レベルがあった。

 つまりはアヤカシに対抗する区分だ。

 それが除怪じょかい抗怪こうかい殺怪さっかい滅怪めっかいの四つ。

 除怪は塩や聖水、お札などでアヤカシを追い払うこと。

 抗怪はアヤカシに物理的ダメージを与えること、ただし抗怪の場合でも退治に至る場合もある。

 殺怪はアヤカシの退治、生き死にでいうところの”死”に相当する。

 滅怪はアヤカシが消滅すること、これも”死”に相当する。

 同じ退治でも、殺怪と滅怪の決定的な違いがあった、それは退治後にアヤカシの痕跡が残るか残らないかだ。

 殺怪の場合ならば戦闘終了時には各国の解析部がその場を解析することができる、この痕跡のよってアヤカシの種類や、負力の構成要素等を調べのちの世に役立てることができた。

 滅怪は痕跡そのものを残さないために解析部でも解析することができない、つまりはアヤカシを退治した証拠が残らないことになる。

 この滅菌にあたるのが、升の使った滅怪領域のわざであった。

 ちなみに沙田のツヴァイドライがシシャを退治したときは殺怪レベルである。

 各国の能力者は”殺怪”レベルまでのスキルを要求されることが多い、だが現実は能力者の絶対数がすくなく、戦闘に向かないサポート系の能力者も現場に駆りだされることが常態化していた。

 そのためこの問題の打開策をどの国も探っている。




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