第108話 孤高の医者(ひと)

 「九久津さん?」

 九条はそっと白衣を脱ぐと机の上にゆっくりと置いた。

 それはタンスに仕舞うように丁寧で、なにかの区切りを意味するかのようだった。

 机上の白衣はポツンとしていて、どこか寂し気だ。

 九条はすこしだけ腰をかがめ机の引き出しから、“KR”のバッジをとりだすと、スクラブの襟の辺りにピン留めした。

 「はい?」

 九久津も応答する。

 「これから」

 「わかってます」

 九久津は九条の言葉を遮った。

 「役人とうきょくとしての質問ですね」

 すぐに察する九久津。

 「そうです」

 九条は勘のいい九久津に、文頭の説明を省いた。

 「わかりました。なんでも訊いてください」

 「まず、ひとつ言っておきます。こう見えてボクはズルい人間です」

 「えっ、先生が? 意味がわからないのですが?」

 「その意味はあとで答えますので、とりあえずボクの質問に答えてください」

 「わかりました」

 九久津は九条をいぶかしみながらも、同意した。

 ただし本心から疑っているといわけではなく、どこか戸惑っているという感覚だ。

 「医師には守秘義務があります。知ってましたか?」

 「ええ。それはなんとなく」

 「たとえば麻薬を使用している患者が来診しても、医師に通報義務はありません」

 「それはつまり先生ならば“役人”と“医師”の立場を自由に使い分けするってことですか?」

 「理解が早いですね。ですけどすこし違います。僕の立ち位置は“医師”の下に“役人”があります。“医師”の括りのなかに“役人”が入っているってことです」

 九条は自分の白衣をさっと広げると、九久津の上半身にかけた。

 ――どういうことですか?と訊きながら、白衣を羽織った九久津。

 さすがに体も冷えてきたのか、九久津はすこし背を丸めた。

 これからまた、話しが長引くことを九久津は十分に理解している。

 「さきほど言ったズルいという意味の答えですが、ボクは患者さんの治療の妨げになることなら、当局に情報は渡しません。当局に要請されて知りえた情報でもボクの判断で取捨選択します」

 「それは当局に不都合なことでも患者を優先し、先生のところで情報を止めるってことですか?」

 「ええ。その通り」

 「どうして?」

 「ボクは寝ても覚めても“医者”だからです。能力者であっても役人であっても、すべては医者の任務の遂行のため。救命のために生きています」

 「……」

 九久津は戸惑った、かつて出会ったどんな大人とも違っていたからだ。

 九久津や寄白たち高校生にとって当局は“大人”であり、国益優先、損得勘定で動く組織人そしきじんであった。

 省庁に属する人間はそれが当然で、むしろ日本にとっては有能な人物たちだ。

 一方で、それがまた少年少女の嫌悪の対象にもなる、寄白と二条の溝もそんなところから生まれた必然の結果だ。

 ただしアヤカシから人を守るという終着駅は同じだが、両立場の隔たりは平行線のまま変わることはない、やがて大人になって当局に所属する以外には。

 九久津も寄白も、それを割り切る賢さを持ってはいるが、ときどきどうしても反発してしまう青さも見え隠れしていた。

 それは心が未完成な若者の当然の帰結である。

 そんななか当局にいてもレールから脱線している人に今日九久津は出会った。

 患者のためならば国に盾突いて、情報を切り売りするような人物に。

 迷う心をなんども咀嚼そしゃくするうちに、湧き上がる上がる思いがある。

 (この人はなにより患者を最優先する人なのか?)

  どことなく、兄堂流の信念に近いモノを感じると、九久津のなかで信頼感さえ芽生えはじめた。

 「ただし、一点だけ注意事項があります」

 「なんですか?」

 「ボクよりも上の立場の人物が公的な書類を揃えてきた場合と、当局が特権を行使して強制的に介入してきた場合に限り秘密の保持は約束できません。書類で残っていれば、当然押収されるでしょうし。あるいは人の頭から情報を盗みとれるような能力者がいれば、それも防ぎようがありません」

 「そこは納得します」

 (俺ももう憐れな弟は卒業しよう。これ以上みんなをあざむく、必要はない。綺麗な証明はできなかったけど……。もう、いいよな。兄さん……)




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