六角市の南西部に六角神社はあった。
鳥居を抜けたさきには、百八段の階段が広がり参拝客を出迎えている。
階段の脇には木々が茂っていて、左右の木の葉がアーチを作っている、それは境内までつづいていた。
境内はボール遊びができるほどの広さで、階段を登った左には六角市に除夜を告げる大きな鐘がある。
向かって斜め左は社殿、突き当りに社務所、そこに連なった形で二階建ての一般的な住宅があった。
言い換えれば、そこが社雛の家だ。
いま境内には荘厳な空気とともに雅楽が響いていた、神社の周囲は緑葉の木々が聖域を守るように囲んでいる。
インターネットがまだパソコン通信という名で限られた人間のみが使用していた頃、まだ人と人との親密な繋がりがあった。
実際この境内には学校帰りの子供が寄り道して、はしゃぎ声を木霊させていた。
両親の職業も立場も関係なく、子供たちだけで成立する世界があった。
今日はたまたま、そぼ降る日だった。
雨は年月を思わせる屋根を濡らし、その屋根は雨粒を弾いている。
雅楽は湿った空気に籠ってやがて消える。
社殿のなかには、男女六人が白い和装姿で頭部をすっぽりと覆う頭巾を被って正座していた。
その者たちの被る頭巾は視界を確保する穴も、呼吸をする空気穴もなく、いっさいが閉ざされている。
社殿の入り口から正面に二人、上手と下手にも二人ずつ並んでいて、それぞれの手前には醤油皿に似た小皿が置かれている。
中身は澄んだ液体で、波紋ひとつなく皿の底の模様がまるで浮き上がっているかのようだった。
素顔を隠した人間が集まり、静まり返った部屋、他者が外部からここを覗けば異様のなにものでもない。
そこへもうひとり頭巾で顔を隠した人物が、障子張りの扉を、右、つぎに左へと開いた。
振りかえることもなく、後ろに回した指さきで左右の扉をぴったりと閉じた。
ただし、その人物が被る頭巾の目元には穴があり、周囲を見渡すことのできる仕様になっていた。
さらに白い和装姿ではありながらも、紫、白、橙色の曼荼羅模様の袈裟を提げている、この場所では特別な存在なのだとすぐにわかった。
畳の上を数歩すり足で歩き、裾に気を使いながら、ゆっくりと膝を曲げて正座した。
「えーと。中央は真野家。上手が寄白家。下手が九久津家です」
そう言いながら点呼をとるように、天井を向けた手で順々にさし示した。
「はい。もう用意はできています」
中央に座っている人間がそう答えた。
その声の主はどうやらは中年男性で穏やかそうな声質だった。
主は真野絵音未の父親である。
「では、さっそくはじめましょうか?」
袈裟を提げた男性は一同に声をかけ同意を待つ。
「お願います」
さきほどの男性の横に座る人物が答えを返した。
それは女性の声で男性同様に穏やかなそうな感じだ。
こちらが真野絵音未の母親である。
「宮司。そちらの和紙に」
真野絵音未の母親は気遣いを込めた優しい話しかたで、己の目の前に手を差しだした。
当然視界が塞がれているために、あくまで憶測での距離感だったのだが、ぴったりの位置に畳一畳ほどの紙が置かれていた。
宮司と呼ばれた男性は社雛の父親社禊。
「大変年季の入った上質な和紙ですね」
宮司は直接和紙を撫でながら、細かなシワを伸ばしていたところで、ピタリと手が止まった。
その目元からは、紙の上を移動する黒い点が見えている。
宮司はなにごとかと思って目を凝らしす、すこしだけくすんだ紙の上を小さな虫があてもなく、ちょこちょこと歩いていた。
宮司が殺生をするわけもなく、その行きさきを黙って見届けた。
「紙魚が歩くほど無添加な和紙。現代の子供はこの虫の存在さえ知らないのでしょうね? むかしは本のなかに紙魚がいても気にせずに読んだものです」
「そうですね」
真野絵音未の母親の頭巾がコクコクと上下した。
なかでうなずいている。
「時代は流れましたね。最近の子供は虫に触れないとか。かつては境内の木でもクワガタを捕まえたりしたものです。そう言えば九久津さんのところは千歳杉に惹かれて座敷童がやってきたんでしたね?」
宮司は九久津家の両者に話題を振った。
「はい。杉の希力に引かれてきたんだと思います」
九久津の母親が返事をした。
「座敷童とは哀しい宿命を背負ったアヤカシですからね」
「本当にそう思います。それなのに人を怨むわけでもなく毬緒に懐くなんて」
「子供のアヤカシはそうするしか方法がないのですよ。それがあらかじめ備わった赤子の防衛本能なのでしょう。もっともいまはアヤカシへと姿を変えてはいますけれど」
「それがまた最近、忌具保管庫に戻ってきたみたいなんです」
「そうですか。なにかキッカケがあったのかもしれませんね。毬緒くんの退院は決まりましたか?」
「いいえ。もうすこしかかるようです。それに当局がなにかを調べてるようで……」
「正式にバシリスクの退治宣言がでた以上さらに詳細な調査が必要なのかもしれません」
「あの子は堂流のことで深い傷を背負ってますから……」
「そうでしたね。雑談はこれくらいにしてはじめましょうか? まずはお神酒を。頭巾のなかからどうぞ。邪気を祓う、お清めです」
六人がそれぞれ目の前の小皿を、おそるおそる手探りで手にとって頭巾のなかで、口に含んだ。
「純米大吟醸酒ですか」
真野の父親は頭巾のなかで声をだした。
「ええ」
「これはすごい」
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