未完のマリア-偽聖母-

 「マリア」

 勝気な目で自分を見る十年下じゅうとししたの妹の名を、男は呼んだ。

 「お兄ちゃん。まだ外に出たらダメだよ」

 マリアは活動的でいつも活発に過ごしている。

 ある日、父親だと名乗るいまだかつて会ったこともない、髭面ひげづらの人物がマリアを置いていった。

 男は無条件にそれ受け入れた、ここでの家族の増減なんてたいしたことじゃない。

 IDみぶんは、己の口から発するだけでいい。

 保証なんてのはなんの保証・・にもならない。

 いつも見かける人を見なくなって、誰かが――死んだ。と言えば、それは死だった。

 父親という人物が、この幼子が、妹だと言った。

 だからマリアは妹になった、それでいい。

 背を比べてみても男よりも、ずいぶんと低い。

 姉と言われれば、姉であったはずだが、あいにくマリアの歳は男よりもずいぶんと下だった。

 姉であれば頼ることもしたのかもしれない、でも妹だった、妹だと言われたから。

 男が弱さを見せるわけにはいかない、小さく、か弱い者を守らなくてはならない、不思議とそんな気持ちが湧き上がってくる。

 父親と名乗る見知らずの者の、たった二言、三言の言葉であってもだ。

 何もかも麻痺したこの場所でも、男の心は麻痺してはいなかった。

 血の繋がり? そんなものはどうでもいいんだ、マリアだってそうだったに違いない。

 雨音・・がしたときにマリアが手をギュっと握り返してくる……。

 その手のひらの暖かさと柔らかさ、それがマリアを守る理由だ。

 人間にあらかじめ備わっている何かが胸の奥で動いていた。

 この国で、マリアなんて名前はよくある名前だ。

 すべてが死んだこの国で、多くの女の子に、かすかな救いを求めてマリアと名づけるのが通例だった。

 小さく無垢な命に聖母を見るからだ。

 だが聖母マリアは早ければ、十歳に満たない歳でただ・・の母になる。

 性を知る前に男性オスが少女を蹂躙するからだ。

 それが通過儀礼だと大人は見て見ぬフリをする。

 助けを乞う声さえ、相手を許容した合図にしかならない、あまつさえ、それは嬉々としての含みととらえた。

 

 ありふれたマリアはまた望まぬマリアを産み落とす。

 この掃き溜めの国で、誕生を祝福されること自体めずらしい。

 

 それでも相思相愛が実る奇跡もあった。

 食物連鎖の生存競争で頂点に立つくらい稀なことだが。

 多くのマリアは父親不明のまま、十余年を経て、同じように、父親不明のマリアを生む。

 途切れることのない、悪循あくじゅん悪循あくじゅんでしか繋がっていかない。

 聖母になれないままのマリアが溢れていく。

 あいにく妹のマリアはまだ、そのとおには至っていないし、つぎのマリアを身籠ってもいない。

 

 宙ぶらりんのマリアはしばしの猶予が与えられている。

 どうか、この負の連鎖を断ち切りたい。

 そんな考えが、いかに、ありきたりなのかと自嘲する。

 この国の誰もが思いつづけてきたことだ。

 男はまるで、誰も思ってこなかった新な発想をしたとでもいうのか。

 なんら解決には至らない、無意味な考え。

 かといって、世界を変えるほど特別な力もない。

 それでも、男には目的があった、この小さなマリアの手を、マリアが望む相手に繫ぐことだ。

 

 マリアの人生そのものを引き受けてくれる相手に。

 男は兄だった、たしかに兄だった、両親のいない不遇な兄妹きょうだい

 この国での不遇とは普遍だ、一般だ、常識だ、当たり前だ。

 綺麗な純白のドレスを着せる、そんなことを望んでしまっていた、ありもしない未来を……。

 薄汚れたこの場所で「白」が「白く」いられるはずはない。

 国の外にも国がある、そこに行けば、男たちに降る雨は止むかもしれない。

 それには、一滴の雨に当たらずに国外に出るしかない。

 男はときにそんな絵空事を描く。

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投稿日:2019年4月9日 更新日: